MIND x GAME

ろんりろん、真摯に論理的にやっていく

押井塾に行こう

はじめに

きっかけは忘れたのだけど、自分は押井さんの話が好きだ。あの語り口がたまらなく好きだ。
あのゆっくりとした、その情景が浮かぶような、それでいて分かりやすい、まさに演出された語り方。
いつ聴いてもその内容に惹き込まれる。素っ気なく突き放すように見えて、その根底に優しさを感じる。

そんなこんなで今回は、「押井塾」を紹介する。


シネマシネマ押井塾14 映画における編集について

は全14編から成り、押井さんが映画の演出論や制作談、その他考えていることを語り尽くす内容となっている。

万人に勧めたいのだけれど、特に技術者に聴いて欲しい。
というのも、技術者が漠然と抱えている問題を扱っているように思えるから。
提示される考えを受け入れないにせよ、いろんなことを考えるきっかけになることは間違いない。
少なくとも、モノづくりに携わっている人達が好きな内容ではあると思う。

ハッカーと画家」でも、ソフトウェアと映画の共通点に触れている。

 

映画やソフトウェアはうまくゆくほうだろう。
というのも、どちらもその製作過程はこんがらがったものだからだ。

(略)

どの映画も一種のフランケンシュタインだ。

(略)

映画やソフトウェアでそれが可能なのは、どちらも軟らかいメディアだからだ。
そこでは大胆さが報われる。

(略)

ソフトウェア会社は、少なくとも成功しているところは、プログラマにより運営されていることが多い。
映画業界では、プロデューサーが後ろについてあれこれ口を出しているとしても、
たいていは監督が画面に現れるもののほとんどを決めている。

 

類似点を要約してみると、

  • 制作物には欠陥が多くあるし、最初に思い描いていたものとはかけ離れている
    (遅く念入りな仕事は早すぎる最適化を意味する)。
    その代わりにプロトタイプを素早く作れる。だからこそ繰り返し修正していける。

  • どちらも軟らかいメディアであるから、工業製品や建造物では真似できないような、
    思い切った変更を加えることができる。

  • 成功しているところは、いわゆる技術者の裁量が大きい。
    ソフトウェアであればプログラマ、映画であれば監督。

話が脱線しそうなので、このくらいにしておいて。

話の中で印象に残ったものを、以下に並べていく。
自分の解釈を加えていたり、自分のメモ用として書き殴っていることもあり、
大分意味のわからないことになっていると思う。

一つでも気になるものがあったら、ぜひ本編を聴いていみて。

話す内容が全て本当だと思ったら大間違い。
鵜呑みにしない。
自分で考える。実際にやってみる。

素質

待機している現実を楽しむ。
努力、才能うんぬんの前に、まずその前提条件として、失敗した自分に耐え、挫折しても同じことを繰り返す。 
不測の事態が起きてもパニックにならない、どんな舞台に出ても揚がらない。

チャンスをチャンスと認識できない人には、チャンスがいくらあったとしても一生チャンスが巡ってこない。
チャンスを捉えたら、とりあえず最善を尽くして取り組んでみる。
そこからさまざまなことを学べる。

物事には順番があるようでない。
なってしまってからやるのが最も効率的。
助手としては無能で使い物にならなくても、上のレベルでめきめきと頭角を現す例外もある。

原則

原則を踏まえたうえで応用問題に取り組むことで、物事を合理的かつ効率的に学べる。

「これが演出論だ!!」のような、応用問題への正しい取り組み方なんてものは教えられない。
映画は例外に対処しながらつくっていく、例外の集積であるから。
教えられるのは、例外にどう取り組むべきか、その原則のみ。
後は、実際に自分でやってみるしかない。

大抵の人が、原則を意識しないまま応用問題に取り組んでいる。
それは、原則が機能的にしか理解できないのに対し、応用問題はより具体的なため取っ掛りやすいから。
応用問題に取り組む中で失敗を積み、その経験から意識的に原則をつくっていく。

そして、原則は少なければ少ないほうがいい。少ないからこそ身につく。
宮本武蔵五輪の書にある技が少ないように、合理的に考えれば真に学ぶべきことは自然と少なくなる。

タグ付け

自分で物を考える筋道、結論に到達する過程について学ぶ。

重要なのは接する情報の量ではなく、自分で考え答えに辿り着いた情報の量。

懸命に考えるという努力を避けて、楽して物事を把握しようとしてもその内容に納得できないし、
その結果蓄積されるのは知識であったり印象論のみ。

普段感覚的に処理してる内容を、
理詰めで明確にし(目安として素人が理解できるように説明する)、
自分の考えを加えた上で、必要なときにすぐ引き出せるよう索引付けしておく。

例えつまらない映画であっても、「何故つまらないのか」「自分であればこうする」等考えているうちに、
あっという間に一本見終えてしまう(「それが楽しくてしょうがない、僕は楽しくてしょうがなかった」)。
シーン、キャラクター表現、デザイン、色彩を一つ一つ確認することを積み重ね、
「なぜこの表現が必要なのか」等を説明できるようにする。
すぐには分からなくても、その引っ掛かりを見過ごさずストックしておく。

一部の例外を除いて、大抵の創作物が引用で構成されていることを理解したうえで、
映画はもちろん、本や論文など他分野からも引用できる要素をストックしておき、
その要素をどのように活用できるか実験する。

見立てについて。
映画のシーン描写に使われているパターンをタグ付けしておき、自分が演出するシーンでそのパターンを引用する。
例えば、「ニルスのふしぎな旅」では「エイリアン」のテクニックを模倣している。
ニルス(小さくなった男の子)がフクロウに迫るシーンに、リプリーがエイリアンに迫るカット割りを混ぜ込む。
その演出方法が正しければ、例えホラー映画の演出であっても児童文学の演出に適用できる。

引き算(100→3)

 達成感に溺れずに、「いかに省略するか」に知恵をしぼる。

 思いついたまま実行するのは馬鹿がすることで、
実際に作業に移る前にやるべきことを頭の中で整理する、空想の世界でシュミレーションし戦略を立てる。

その結果、無駄と判断したことは一切やらないことで、作業量が減りテンポが良くなる。
時間的にも精神的にも余裕が生まれ、重要な箇所により多くの時間を割くことができる。
無用なエネルギーを浪費しないため、現場が救われる。

「なぜこのカットが必要なのか」を確認し、無駄なカットを削ぎ落としていく。その代わりとして、出来のいいカットを伸ばしていく。
手順として必要なカットをできるだけ省略して、物語に込めたいニュアンス、表現に時間を割く。

労働集約型よりも、成果評価型を重んじる。

段取りうまく、合理的に物事を進めることを評価する成果評価型に対し、
労働集約型の危険なところは、熱意や思いだけで空回りに終わったとしても、達成感を求めることでその失敗を埋めてしまうところ。

現場に張り付いて取り組めば取り組む程、一生懸命やっているという達成感が蓄積されていく。
結果は出せなかったけど一生懸命やった、こんなに一生懸命やったのだから結果も良くなる、という逃げ道ができてしまう。
一生懸命取り組んだということを誰も否定できない。

間違った努力をしてはいけない。

例えば、一つのシーンやカットで伝えたいことを表現するためにどのように情報量をコントロールするのか、適切な手法を考えた上で編集作業に入る。
視聴者に与える聴覚的、視覚的な情報をコントロールして、いかに飽きさせることなく楽しませ、伝えたいことを伝えられるか。
何かを見て笑った演技に見せたいなら、キャラクターを瞬きさせてから微笑ませる。
何かサインを送る演技に見せたいなら、キャラクターを微笑ませてから瞬きさせる。
その他にも顔の角度や距離感などによって、幾通りものパターンが考えられる。
これらパターンが意図する効果を、実際に編集してから気づくのではなく、
編集する前にあらかじめ把握しておくことで無駄な作業を防ぐ。

内実

はたから映画を見ているだけでは、そのリアリズムを知ることはできない。

映画を撮りたいのか、それとも映画監督になりたいのか。
大切なのは、撮りたい映画を持っていること。
撮りたい映画を持たないまま、お膳立てされた環境で監督のイスに座りたいと望んでないか。
「監督や演出家になりたい」という欲望の中に、それらに一番向かない要素が含まれる場合がある。

実際に現場に出ることで世の中に抱いている幻想を消し、自己幻想に浸るのをやめることで身の程を知る。
世の中に幻想を持っている間は仕事にならない。自分のことを天才だと思っているうちは、他人が邪魔に思える。
しかし実際には、他人を理解しようと努めて初めて自分のやりたいことが実現できる。

一人では何もできない。
「自分を理解してくれ」といくら言っても聞く耳はない。

商業映画の世界では、他人の欲求を満たして初めて自分のやりたいことができる。
伝えたい表現があり、それをどのように伝えるか考えるためには、伝える対象である他人を理解する必要がある。

相手は何を必要としているのか。

相手を懸命に理解しようとすることで、相手もこちらを理解しようとしてくれる。
自分が必要としていた人に会える。自分を評価してくれる、助けてくれる人が現れる。

大切なのは人の話を聞くこと。

世の中に興味を持ち、目の前の人に興味を持ち、そしてその人の話を真剣に聞く。
休憩中に文庫本を読むのか、出稼ぎに来ているおっさん達と話し込むのか。
相手の話を聞くことで、自分の知らない他人の人生の内実に触れる。

面白おかしく話をする。
社交的でなくともごく自然と周りをおもしろがせる。
結果的に喋り続けている。

そして、話し合っても分かり合えないことがあるということを理解していく。
例え誠意に取り組んでも、自分の思いは他人に伝わらないことを受け入れる。

話せば分かり合えるなんてことはなく、一瞬伝わったかと思った次の瞬間にはまた伝わらなくなる。
「伝わらないこと」を通して、相手が何を「理解できないのか」を理解することで、少しずつ他人を理解していく他ない。

少し脱線して「軽蔑」という映画について。
人は急に心変わりする。特にこれといった理由なく。
それがが人生の実相であり、それを受け入れいることが...。

相手の要望を理解し満たして初めて、自分の表現を加えることができる。
結果的に自分の映画に落とし込むことができる。 

堪能

 まず第一に、作っている本人が楽しむ。映画の醍醐味をとことん味わい尽くす。
何もかも犠牲にして、こんなに苦労して、命懸けで作った映画から見えてくるものは、映画の一部でしかない。
「これかあれか」という考えは、時としてそれ自体に価値を見出してしまう恐れがある。
他人が持ってきた企画を、再改修を繰り返す中で除々に自分の映画にしていく。
大ヒットしたことがないのに、これで基本的には30年間好きな映画をつくってこれた。
人生も映画も相対的なものだから、何か絶対的なものがあると過信したところでドツボにはまる。

自分との対話を通して、自分が何を望んているのか確認する。
何もかも取っ払った自分が本当に求めているものは何なのか。

憑物語より。

いや違うな・・・こうじゃない。
いや、違うな・・・こうでもない。

私は、一体どうしてここにいるんだ。

君のような例外的な存在の向こう側に立つにあたっては、ベストなキャスティングだと言える。
そうキャスティング。
キャスティングされたような気がしてならないんだよ私は。
私はただ単に、ここでこうして、君と戦うのに丁度いい人間だから、
役として選ばれたにすぎない気がする。

君は仕方無く、言うなれば、強制されてそこに立っているんじゃないのか?
私は少なくともそうだ。

私達にアドリブは許されていない。

忍野を探せ。
あいつなら誰にも利用されることなく、キャスティングの外から中立的にバランスよく物語に関与できる。

こんなに、ちゃんとせずに済んだ。

駒のように配置されて、駒のように動かされ、駒のように働くのは、もううんざりだ。

 

他人と群れている、日常に追われている間は忘れ去られているものと向き合う。
本当にこのまま目を瞑っていいのか。

身体と相談しながら、映画を自然につくる。
身体が要求する、自分が気持ちいいと思う流れに逆らわない。
自分の言葉や持ち場に縛られる、またやる意味があるという選択基準よりも、
目一杯楽しもうとする心持ちや心地よさ等、自分の中から自然に湧いてくるものを優先する。
システム的にトップダウンでつくるだけではなく、
この役者と仕事がしたい、またこの景観を撮りたい等ボトムアップでつくってみる。

自分のやりたいことをやるためには、ただわがまま言っていればいいわけではなく、
それ相応の自然体でいるための努力と訓練が必要になる。
周りから批判の声が挙がっているようであれば、説得して納得させたり、時には切り捨てることで対処する。

そうして自分にとっての心地よさを模索していく。

おわりに

GWはどうですか。